Apr 06, 2005

新教科書を考える

来年度からの新中学教科書の文部省検定が終了し、結果が発表された。
歴史、公民の教科書に注目は集中しているが、私は別の観点からながめてみたい。
それは、「学習意欲減退」への対応と称した構成についてである。

各社の教科書は、学力低下の要因の一つとして、学習意欲減退をあげ、それを補うべく「興味をもたれる教科書」を目指したという。
まだ、教科書の実物を見たわけでないから、報道からの印象ということを前提として言うが、教科書が生徒に媚びるようなものなら、そんなことをする必要はない。
わかりやすいテキストを目指すことは当然としても、音楽に流行歌をのせてみたりするような方向は賛成できない。

かつて、今よりずっと地味で“つまらなかった”教科書でも学習意欲は、今より高かった。
今はTVゲームなどがあるせいだというが、時代時代で、熱中した遊びはあった。
自分ができる科目や、体育、理科の実験などは面白かったが、総体的にいえば、勉強は嫌いなものだった。
私は、もっと別のところに問題があると思っている。

一つは、悪平等主義だ。
いきすぎた結果平等主義のことを指して、私はこういっている。
すなわち、いくら学習をしても、それが評価されずに、結果が平等にされてしまっては、学習意欲もなくなろうというものだ。

もう一つは、努力軽視主義だ。
バブル時期などに“一生懸命は格好悪い”とマスコミを中心に喧伝された、その名残だ。
学問に王道なしといわれるが、勉強とは地道に少しずつ積み上げていくものであり、愚直な努力が必要とされる。
それが「格好悪い」と言われているのだから、学習意欲はわかないだろう。

そして、最後は学歴社会への批判である。
これは前述の悪平等主義とも絡んでくるのだが、かつてのように、いい大学に入ればいい会社に入れて、一生安定するという社会ではなくなってきた。 このことは、学習への意欲付けを失わせているのではないか。

教科書も、学校の勉強も、つまらなくて構わないと思う。 それでもやらなけばならない、つまらないように見えることを重ねていくことで初めて得られるものがある、ということ自体が広い意味での教育ではないだろうか。 そして、学習意欲を向上されるのは、教科書の仕事ではなく、社会の責務ではないか。 学校や教科書といったものに矮小化し、小手先の工夫をしても何もかわらないどころか、事態を悪化させるだけだ。

Posted at 11:41 | WriteBacks () in 社会 | Edit
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