Mar 25, 2005

人権擁護法案不安派としての反対意見

某弁護士Blogのコメント欄で、人権擁護法案について書き込みをいくつかした。
その過程で、自分自身のまとめとなった側面もあり、あらためて人権擁護法案に私が反対している理由をまとめてみたい。

■言論の自由の確保
言論の自由は、民主主義の根幹をなすものであり、それに制限を加えるような法は、他の法より以上に慎重になるべきである。

■歯止めの不在
人権委員会は実質的に同じ組織内で、告発・認定・強制措置(調査・公表)が可能。これは、警察が強制捜査を行うには裁判所の令状が必要といった形で歯止めがあることと比べると、歯止めがなさすぎるのではないか。
一方で、法務大臣は管理監督権限がなく、委員の身分保障条項もあるため解任もリコールもできない。あまりに恣意的運用を可能にする余地が大きすぎる。
「人権調整委員たるに適しない非行があると認められるとき」には解任できるとされているが、恣意的運用がその非行にあたると判定することは、人権委員会が独立性をできるだけ保とうとしている法案内容から考えても難しいと思われる。
また、人権委員会が5人(うち常勤は2)で、最大二万名の人権擁護委員からの告発その他をきちんと吟味して管理できるとは、とても思えない(もし、仔細に検討するのであれば、迅速な対応はのぞめなくなり、法案の異議は薄れることになる)。これは、人権委員より任命規定の緩い人権擁護委員の恣意的運用を許すことになるだろう。

■救済(対抗)措置がない
人権委員会の活動に対して、告発・調査対象になった人物に対する救済(対抗)措置がない。もちろん、裁判によれば可能であるが、一般の社会人(しかも、人権委員会により告発されていれば、その時点で社会的制裁をうけると想像される)は、裁判を維持すること自体が難しく、また、長期化しがちな裁判では、人権侵害として公表された場合の、社会的制裁の実質的な回避・回復は難しい。これは、人権委員会が自らの組織内だけで“権力行使”できることに比べると不公平すぎる。

■法的安定性を欠く
「人権」という言葉はあまりに範囲が広く、具体的にどのような言論が人権侵害になるのかという予見が困難であり、このことは人権委員会に恣意的運用を可能にする余地を大きく与える。同時に、実際に告発・公表に至らなくても言論を萎縮させる可能性が高い。 例えばサルマン・ラシュディ氏の『悪魔の詩』は、日本人から見れば、ただの小説にすぎないが、イスラム教への冒涜であるとして、ホメイニ師から懸賞金付でラシュディと出版社は死刑宣告をされた。立場が違えば、言論に対する評価は全く異なるものになる例であろう。イスラム教徒にとって『悪魔の詩』は自分達の宗教への冒涜として「人権侵害」であるということができるのだ。
このように推し進められていくと、一人でも「人権侵害だ」と強弁すれば、なんでも人権侵害だと認定されて、言論が封殺されてしまうのではないかという疑念がぬぐえない。
過去(現在でも)人権の名のもとに、言葉狩りが行われたり、講演会が中止に追い込まれるなど、実質的な言論弾圧に近いことが行われている。であるから、「人権」というあいまいな定義での言論の取り締まりを危惧する。

これらの、後者3つ(歯止めの不在、救済(対抗)措置がない、法的安定性を欠く)がセットなっているのが大問題である。

人権委員会による公表(情報がどの程度のものか判然としない。二次的差別を防ぐなどと理由をつけて、実際の言動が公開されない可能性すらある)の時点で、社会的制裁をうける可能性が高い。過去、ロッキードの「灰色議員」のように、起訴もされていないのに、以後、ずっと世間の批判にさらされた例があり、日本においては、社会的制裁は「推定有罪」により行われているといえるからだ。
特に実力行使を行うような集団に対する差別であったり、情報を総会屋が入手したりすれば、「なぜ人権侵害者を雇用しているのか」などと所属会社(組織)を追及することは十分に考えられる。となれば、公表された時点で、「くさいものには蓋」とばかりに、内容をよく吟味されないまま所属会社からの解雇などの社会的制裁を受けていくことになるだろう。
従って、恣意的運用により、実質的に随意に社会的制裁を人権委員会がコントロールできることになる。一般の人間は社会的制裁を受ければ致命傷であるから、実質的な言論封殺が可能となる。
人権委員会自身は勧告・公表しかできないとしても、それに伴う社会的制裁まで考えなくては手落ちである(そもそも、法案において、公表は懲罰的公表として位置づけられている)。
そして、恣意的運用を監視・批判しようにも、人権委員に対する批判自体が封殺されてしまえば、不可能となる。

私は、反対派の中で唱えられている解同の悪用の意図については問わない。
それは政治的文脈の問題であり、私は法案の法学的・社会的文脈で不安視しているからだ。
ただ、人権擁護を標榜しているような組織が悪用の意図をもっていたと“仮定”した場合、現行法案では、その悪用を容易に許してしまうのではないかということを恐れている。
「性善説」にたちすぎた法案で、言論の自由という民主主義の根幹に対する規制となる法案なのだから、もっと慎重に、「性悪説」よりにたつべきではないだろうか。

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