Jan 11, 2005

『自然保護』という傲慢さ

私は『自然保護』という言い方が嫌いである。
保護という言葉を辞書で引いてみれば、「危険・破壊・困難などが及ばないように、かばい守ること。」(三省堂『大辞林』第二版)ということだ。
つまり、強者が弱者に対して行うというニュアンスをもっている。
だが、いつから、人間は自然に対して強者になったのであろうか?

『地球にやさしい』という言葉も嫌いである。
別に温暖化しようと氷河期になろうと、地球という天体の寿命には全く影響あるまい。
生物にしたところで、その環境への適者がまた繁栄するだろう。
大型爬虫類が哺乳類にとってかわられたように。

つまるところ『環境保護』というのは『“人類が生存するのに都合のいい環境”の保護』でしかない。多少は割り引けば、“人類”というところに“人類と人間が感情移入できる生物”とあてはめられるだろうし、もうちょっと普遍的にいけば“現在の環境に適応している生物”とあてはめてもよい。
だが、いずれにしても、「自然」や「地球」のためではない。

かといって、最近の流行の小説や映画のように「地球(自然)を保護するには“人間”こそ排除すべきである」などという結論を導くつもりはない。
天災一つ防げない人間が、自然を破壊できると思ってることが傲慢だ。そもそも人類も地球の“自然”から生み出された存在であり、その所業もまた自然の範疇だと私は考えている。
人間は「森林」を破壊することはできる。だが。「雑草」を耕作地から排除することには完全には成功していない。
人間は「大型哺乳類」を絶滅させることはできる。だが、「害虫」を根絶することには成功していない。
つまるところ、その程度の存在でしかない。

思うに自然保護という考え方は、自然と人間を対立構造として捉えている西洋的な考え方だから生まれてくるのではないだろうか。
東洋思想的な、人間もまた自然の一部であるとみなす考え方とは少し外れている気がする。だから、この東洋思想的な思考から、もう一度、“自然保護”を見つめなおして見れば、あらたな展開が開けるのではないだろうか。

ちなみに、私は自然保護「運動」には結果論的に賛成である。
私も人間だから、人間が住みやすい環境を維持することには大賛成だからだ。
ただ、その偽善性と傲慢さが嫌いなだけである。

Posted at 10:22 | WriteBacks () in 社会 | Edit
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