Nov 10, 2005

人権擁護法案・地方条例のこわさ

人権擁護法案を遡上にのせている以上、鳥取県で制定された地方条例としての人権擁護法案「鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例」についても触れなくてはいけないだろう。
条例の詳細については、鳥取県のHPを参照していただきたい。

この条例の問題点は多々あり、国の人権擁護法案と同様の問題も内含している。
既に国の法案については何度も指摘済であるので、それ以上であるこの条例の問題点を列挙していきたい。

■私人間が主対象である
そもそも国の法案では「公的機関による差別」をかなり重視している(条文の分量からすれば私人間に対する部分よりよほど多い)。
しかし、鳥取の条例では「第3条 何人も、次に掲げる行為をしてはならない」としている。第2条で「行政機関による同条の規定に違反する行為を含むものとする」とはしているものの、第19条3で「第1項の規定による協力の要請を受けた関係行政機関は、当該協力の要請に応ずることが犯罪の予防、鎮圧又は捜査、公訴の維持、刑の執行その他公共の安全と秩序の維持(以下「公共の安全と秩序の維持」という。)に支障を及ぼすおそれがあることにつき相当の理由があると当該関係行政機関の長が認めるときは、当該協力の要請を拒否することができる」、同条4「第1項の規定による協力の要請を受けた関係行政機関は、当該協力の要請に対して事実が存在しているか否かを答えるだけで公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれがあるときは、当該事実の存否を明らかにしないで、当該協力の要請を拒否することができる」となっており、理由をつければ行政機関は人権救済推進委員会の調査を拒否できることになっているのだ。
これでは、むしろ私人間を主な対象としているといっていいだろう。
そして、その私人間に対して以下のような行為が可能なのである。

■人権救済委員会の権限が強すぎる
国の法案は救済方法を一般救済と特別救済に分け、(反対派が問題にしている)特別救済を適用できる場合を限定している。しかし、鳥取の条例では、全ての申し立てに特別救済が適用できてしまう。
そして、この特別救済では、“人権侵害者”の氏名の公表が可能である。これは私人間にとっては致命的な社会的制裁が行われるに至る可能性が非常に高い。
また、人権啓発の研修会への参加勧奨が救済措置としてあげられているが、いったいどのような“研修会”なのだろうか。様々な“事例”を思い返せば、恐怖を禁じえない。
さらに、その前段階である「調査」にも問題がある。第19条1で「事情の聴取、質問、説明、資料又は情報の提供その他の必要な協力を求めることができる」、同条2で「正当な理由がある場合を除き、当該調査に協力しなければならない」となっており、立入調査こそないものの、協力しなければならないとした調査が可能だ(ちなみに鳥取県のQ&Aによると正当な理由とは「法令で特段の定めがある場合のほか、職務上の守秘義務に当たる場合が考えられます」という限定されたものにすぎない)
この調査の結果は第20条「当該調査に係る事案の当事者に対し、その調査結果の内容を書面により通知するものとする」としているのだが、同条3「当該調査結果の内容について不服があるときは、当該通知を受けた日から2週間以内に、その理由を記載した書面により、委員会に再調査を申し立てることができる」、同条4「委員会は、前項の規定による申立てに理由があると認めるときは、再度第18条に規定する調査を行わなければならない」となっており、この再調査には限界がない。
つまり、何度でも再調査を申請することが可能で、法の性格上、よほど支離滅裂な理由でない限りは「理由ある」と認めざるをえないだろうから、何度でも再調査が行われることになりかねない(「事実がなかった」ということを証明するのは、悪魔の証明であり、非常に困難だからだ)。
そして、28条2「正当な理由なく第19条第2項の規定に違反して調査を拒み、妨げ、又は忌避した者は、5万円以下の過料に処する」なのだ。
こうなると差別したと認めるまで何度でも再調査が可能ということになる。

■第三者からの告発ができる
17条2「何人も、本人以外の者が人権侵害の被害を受け、又は受けるおそれがあることを知ったときは、委員会に対しその事実を通報することができる」とされている。つまり、まったく関係のない第三者による「通報」が可能なのだ。
となれば、特定の「運動家」がとにかく何でも訴えるという可能性が当然に出てくる。 そして、上記のように何度も再調査が可能……
なんとも「運動」に都合のいいことだ。

■反論の余地が極めて狭い
国の法案同様、被告発側の救済(回復、不服申立)措置が不十分なのはもちろんだが、反論の余地さえ極めて狭い。
第25条により「当該加害者等に対し、弁明の機会を与えなければならない」とされているものの、同条2で「弁明は、委員会が口頭ですることを認めたときを除き、弁明を記載した書面(以下「弁明書」という。)を提出してするものとする」とされているだけで、その弁明に対して審査や回答は約束されていない。
あまりに一方的だといえよう。

■人権救済委員会の独立性が低い
委員は5名からなるが、任命は第7条により「議会の同意を得て知事が任命する」、第10条により「知事は、委員が前条第1号に該当するときは、その委員を解任しなければならない」、第14条により「当該措置又は公表の内容を、知事を経由してその日以降の最初の議会に報告しなければならない」、同条2により「事務の処理状況について報告書を作成し、知事を経由して議会に提出しなければならない」。また、鳥取県のQ&Aにより、委員会は「知事の附属機関」であることも明記されている。
あまりに知事にぶら下がりすぎであろう。
これに対して、鳥取県は地方自治法により独立機関とすることができずにやむをえず知事の附属機関とするほかなかった、と回答している。が、独立性を担保できずにやむをえないというのであれば、この法案自体を撤回すべきだ。

ちなみに、一部報道によれば、法務省は「本来、人権救済は全国一律、平等に行うべきであり、地域でばらばらの対応になるのは好ましくない」という見解を出しているという。
また、電話で鳥取県に確認(いわゆる電突)したところによると「鳥取へ観光旅行した際、料理がまずかったとして、後日『あの店の職人は腕が悪い』と書いたら、誹謗中傷となり、調査対象になる」という回答を得たそうである

かつての米の禁酒法のように理念がどんなに素晴らしくても運用が伴わなくては悪法になるという例は実際にある。
あるいは個人情報保護法での過剰反応にみられるように、法律違反をおそれるあまりに萎縮するケースも実際にある。
こうした「先例」の経験を無駄にしてはいけないだろう。

Nov 09, 2005

案の定の「人権侵害」報告

「国連人権委員会のドゥドゥ・ディエン特別報告者(セネガル)が7日、国連総会第3委員会(人権)で日本における人種差別の状況について報告、同和問題やアイヌ民族、在日韓国・朝鮮人らに対する差別が実在しているとして、包括的な人種差別禁止法の制定を訴えた。」(共同通信)という報道が出た。
が、これは既にこのディエン氏が日本に調査にきた時点で、あやしい背後関係が喝破されていたのである。詳細はmumurブログに詳しい。

こういう事があるからこそ、包括的な人権という定義により言論取締り法案ができることを危惧するのである。
この言葉が本来、当然に尊重するべきであるのに、いかに「人権」という言葉が悪用されているのか。
「人権」という言葉が、全く信用・信頼できないのが、日本の現状であるとはいえないだろうか。

人権擁護法案の今後

人権擁護法案が話題になってから随分とたつ。
前回の選挙により人権擁護法案反対派が多く自民党から離れたり、議席を失ったりしたが、その新たな状況に対応した運動をしていくしかない。
実際、人権擁護法案「中身に問題」 法相、現法案提出に否定的(朝日新聞11月3日 = asahi.com)という報道があるように、推進者であった古賀誠氏の影響力低下により新たな展開も生まれてきている。

先の報道にしたところで、人権擁護法案そのものをあきらめるというものではない。
どのような内容になるかは不明だが、私が注目したいのは、以下のポイントである。

■言論の自由の確保
言論の自由は、民主主義の根幹をなすものであり、それに制限を加えるような法は、他の法より以上に慎重になるべきである。
例えば、公正取引委員会が恣意的な運用を行ったとしても、それを言論で指摘し、あるいはひっくり返すこともできよう。企業体であれば、その間の“不利”を耐える体力をもつことも可能だ。しかし、言論そのものが脅かされ、まして、個人が対象となるのであれば、そのようにはいかない。
これが大前提だ。

■“差別”の非包括的定義
本来、法の穴をふさぐためには、包括的定義を行うことが望ましい。
かつて、いわゆる「ねずみ講」禁止の条文で、その対象として「国債」が含まれていなかったために、それを使ってねずみ講を行った事件が発生したことがあった(しかも法案修正後には会社を解散したため、かれらがねずみ講として摘発されることはなかった)。これも、包括的定義を行っていれば、防げた事件であろう。
しかし、言論というものがデジタル的でなく曖昧な部分を多く抱えていることも鑑みれば、なにが法の対象となるかがわかりにくいのは、言論の萎縮につながり、健全ではない。
また、過去、人権擁護や差別解消という名のもとに、その“専門団体”によって行われてきた“弾圧”を知っている人間にとっては恐ろしいことこの上ないのである。

■救済(対抗)措置
人権擁護法案の趣旨からして、人権侵害の告発・認定というプロセスがあることは避けえない。その「素早い処理」に対して「素早い救済」が可能であるかどうかは注目しなくてはならない。
本来、推定無罪であるはずが、世間一般では推定有罪であるかのように扱われていることはもちろん、総会屋などがはびこってきたのは「ことなかれ主義」によるものだ。これが、「人権侵害の疑いにより告発」という出来事にどう対応するか、非常に危惧される。
個人という“体力”のないものを対象にしている以上、一般の裁判によらなくては救済できないようでは片手落ちだろう。

■実質業務の妥当性
人権侵害の告発件数をどのくらいと見積もって、それをどのくらいの人数でさばくのか。
場合によっては、単なる事務方が実質的な判断を行うことにもなりかねない。
そうなっては“危険性”は増すことになろう。

■濫用に対する歯止め
これは2つの意味がある。
一つは、“告発”の濫用である。
とにかく、数うちゃあたるで、特定の対象に告発しまくり、一つでもとおれば御の字というような“悪用”をしてくる輩が出てくる可能性は否定できまい。そうした事態を防ぐための歯止め措置が必要である。
もう一つは、この人権擁護組織の恣意的運用に対する歯止めである。
例えば「二次被害」を防ぐために、実際になにがおきたかは知らされずに「告発・認定」だけが発表され、あるいは、人権擁護組織に対する批判的言動事態が「人権侵害」として告発されてしまったらどうなるだろうか。
学生運動はなやかりし頃、「赤軍罪」という言葉があった。
もちろん、そんな罪状はないのだが、様々な法を駆使して、ほとんど言いがかりにも近い事由で警察が過激派を拘束したことを指す(最近では、オウム信者に対して同様なことが行われた)。
つまり、法の“濫用”は今の法でも十分にありえるということだ。
では、なぜ、人権擁護法案には厳格な“歯止め”を要求するかといえば、それが言動を取り締まるものだからである。
先ほど例にあげたような“濫用”が極一部に対して(国民一般がそれを知っても納得できるような範囲で)のみ行われているのは、言論の自由が存在し、それによって批判にさらされる可能性が常に存在するからだ(念のため、一部へ対象であっても、こうした“濫用”が許されるべきだと私が思っているわけではない)。
しかし、言論の自由を脅かすものがあった場合、そうはいかなくなる。
“濫用”に対して指摘ができなくなれば、それをとめる手立てはなくなるからだ。
だから、他の法以上に厳格な運用しかできないような歯止めがなくてはいけないと私は考えるのである。

おそらく近く修正案がでるのだと思うが、今後も注意深く動向をチェックしていきたい。

Nov 07, 2005

評論と運動論と理想

えー、飲みすぎには注意しましょう。
反省してます。
……と、前ふりはともかく表題の議論。

いってみれば、このブログは「評論」というカテゴリに属するのであろう。
こういう場合、筆者は、自分の「理想」を主張していけばよい。
政治評論という舞台では、「よりベターを選択する」という民主政治の観点からの「ベター」を論じることはあるが、それは、自分の「ベスト」に少しでも近づけようという意味でのベター論である。
なにか問題が生じている場合、それに対する解決案も、素直に自分の考えるものを表明していけばよい。
自分の理想を書き連ねることが許されるのが評論だといえる。

しかし、同じ課題を「運動」として扱う場合は話が異なる。
運動とはアピールであると同時にネゴシエーションでもある。
仮に「おとしどころ」があると思っていても、最初からそれを主張していては、考えていた「おとしどころ」より「相手側」で決着してしまうだろう。
だから、「運動」として展開する場合には、あえて強硬な主張をしていく必要がある。
ただ、あまりに強硬すぎてアピールすべき層に「引かれて」しまうと本末転倒だ。
ここが、成功する運動と失敗する運動の差になるのではないだろうか。

近年、右派による「運動」が盛り上がりはじめている。
しかし、長年「運動」を行ってきた所謂プロ市民に比較して、戦術的に劣る部分が多々見られる。
彼らは、単に商売しているという意味だけではなく「プロ」だ。右派といえども、その運動戦術を見習うべきところは見習っていくことが必要ではないだろうか。
そして、「運動」での目的が同じであれば、その他の主張は違っても共闘できる筈だ。

Jun 02, 2005

誤解なきように

なにか、昨日のエントリの私の文章が、あちこちにコピペされているようだ。
その過程で省略されたりしているために、ちょっと私の真意とは異なるような捉え方をされているきらいもあるので、ここで少し解説を加えておきたい。

私は、以前のエントリでも述べているように、本来、法案の法学的・社会的文脈で不安視している。

■言論の自由の確保
■歯止めの不在
■救済(対抗)措置がない
■法的安定性を欠く

この観点からすると、今回報道された修正案というのは、評価できる部分が大きい。
法的安定性の部分では大きく前進しているし、事実上の強制力を弱めたことも評価できる。
そして、私はあまり国籍条項は重視していなかった。
人権というものを扱う上で、より価値観の共有度が高いと思われる日本国籍を有するものが人権擁護委員としてベターだとは思うが、法案にきっちりとした安全弁があれば、問題はなく、逆に常識から外れたような運用を行う人権擁護委員を批難することができるからだ。
だから、現在報道されている修正案に加えて、歯止めの問題と救済(対抗)措置の問題が解決されれば、私としては積極的に反対する理由はない。

が、前エントリについては、あえて避けていた政治的文脈で人権擁護法案(の修正案)を語った。
国籍条項、とするにはあまりに「穴」があるがゆえ、そこに不自然さを感じたからだ。それにより、得するのは誰なのか、を考えたということである。

ただ、今回の報道は断片的であり、また、はっきりとしたFactがとれていない。
だから、最後に「詳細はつまびらかではない」「現在のところ」というエクスキューズをいれておいたのである。
この報道が事実でなかった場合には、陳謝するつもりだ。

元々、反対派議員を攻撃する意図はない。
しかし、報道で「国籍条項を盛り込んだ」とされているものが(この共同電を信じる限りは)実質的には事実ではない、ということに注意すべきであると考え、警告という意味合いもあって前エントリを書いている。

以上を、私の真意の説明とさせていただく。

May 31, 2005

動き出した人権擁護法案

国籍条項盛り込み調整へ 人権擁護法案で自民(産経新聞5月31日 = Sankei Web)という報道が出た。
反対派の「真の人権擁護を考える懇談会」の会長、平沼赳夫氏が与謝野馨政調会長に修正案を示したという。

その修正案というものの一部が同記事中にある。

「人権委員会の出頭要請や立ち入り検査の規定を削除」
 →これはよい。
「人権侵害の定義は、憲法の保障する権利および自由を違法に侵害する行為」
 →限定列挙にすべきだとは思うが、現行法の範囲という点で法的安定性、予見は相当程度確保されたと考えられ、評価できる。
「メディア規制条項は削除」
 →むしろ、まずはメディアに適用してほしい。ただ、推進派の与党人権問題等懇話会(古賀誠座長)は、これを“凍結”扱いを主張している。

 さて、ここまではまだよい。
 問題は見出しで「国籍条項盛り込み」と言われている部分だ。
 公明党も「必要があれば(政府案を)修正する」との考えを示したとくくられており、いかにも国籍条項盛り込みを支持しているように見える。
 が、記事を注意深く読むと単純な話ではない。国籍条項とされている部分を引用してみよう。

人権擁護委員は「市町村議会選の選挙権を有する住民」とし、日本国籍に限定

そう、もうわかったであろう。条文として日本国籍に限定しているのではなく、また、憲法で日本国籍をもたなくては有せないとされている国政選挙権ではなく、「地方参政権」なのである。
つまり、永住外国人地方参政権付与が実現すれば、彼らが人権擁護委員になれるという道を残しているということだ。

あまりに反対意見が多いことから、1STEPおこうという作戦であろう。
「国籍条項を盛り込みました!」として、人権擁護法案を成立させる。
そして、永住外国人地方参政権付与を実現させる。
すると、人権擁護委員に永住外国人がなれる、という仕組みだ。
だから、公明党も賛成したということだろう。

私は安易な陰謀論はとりたくない。
しかし、「国籍条項」と称しているものに、単純に「日本国籍」と明記せず、こうした迂遠な表現をとったとなると、どうしたもそこに「策略」を感じずにはおれない。
詳細はつまびらかではないが、今回の修正案は、できるだけ原案の骨子を残したまま、世論を誤魔化そうとしているようにしか見えなくなってくる。
よって、現在のところ、私は、この修正案をもってしても、人権擁護法案には賛成することはできない。

Mar 25, 2005

人権擁護法案不安派としての反対意見

某弁護士Blogのコメント欄で、人権擁護法案について書き込みをいくつかした。
その過程で、自分自身のまとめとなった側面もあり、あらためて人権擁護法案に私が反対している理由をまとめてみたい。

■言論の自由の確保
言論の自由は、民主主義の根幹をなすものであり、それに制限を加えるような法は、他の法より以上に慎重になるべきである。

■歯止めの不在
人権委員会は実質的に同じ組織内で、告発・認定・強制措置(調査・公表)が可能。これは、警察が強制捜査を行うには裁判所の令状が必要といった形で歯止めがあることと比べると、歯止めがなさすぎるのではないか。
一方で、法務大臣は管理監督権限がなく、委員の身分保障条項もあるため解任もリコールもできない。あまりに恣意的運用を可能にする余地が大きすぎる。
「人権調整委員たるに適しない非行があると認められるとき」には解任できるとされているが、恣意的運用がその非行にあたると判定することは、人権委員会が独立性をできるだけ保とうとしている法案内容から考えても難しいと思われる。
また、人権委員会が5人(うち常勤は2)で、最大二万名の人権擁護委員からの告発その他をきちんと吟味して管理できるとは、とても思えない(もし、仔細に検討するのであれば、迅速な対応はのぞめなくなり、法案の異議は薄れることになる)。これは、人権委員より任命規定の緩い人権擁護委員の恣意的運用を許すことになるだろう。

■救済(対抗)措置がない
人権委員会の活動に対して、告発・調査対象になった人物に対する救済(対抗)措置がない。もちろん、裁判によれば可能であるが、一般の社会人(しかも、人権委員会により告発されていれば、その時点で社会的制裁をうけると想像される)は、裁判を維持すること自体が難しく、また、長期化しがちな裁判では、人権侵害として公表された場合の、社会的制裁の実質的な回避・回復は難しい。これは、人権委員会が自らの組織内だけで“権力行使”できることに比べると不公平すぎる。

■法的安定性を欠く
「人権」という言葉はあまりに範囲が広く、具体的にどのような言論が人権侵害になるのかという予見が困難であり、このことは人権委員会に恣意的運用を可能にする余地を大きく与える。同時に、実際に告発・公表に至らなくても言論を萎縮させる可能性が高い。 例えばサルマン・ラシュディ氏の『悪魔の詩』は、日本人から見れば、ただの小説にすぎないが、イスラム教への冒涜であるとして、ホメイニ師から懸賞金付でラシュディと出版社は死刑宣告をされた。立場が違えば、言論に対する評価は全く異なるものになる例であろう。イスラム教徒にとって『悪魔の詩』は自分達の宗教への冒涜として「人権侵害」であるということができるのだ。
このように推し進められていくと、一人でも「人権侵害だ」と強弁すれば、なんでも人権侵害だと認定されて、言論が封殺されてしまうのではないかという疑念がぬぐえない。
過去(現在でも)人権の名のもとに、言葉狩りが行われたり、講演会が中止に追い込まれるなど、実質的な言論弾圧に近いことが行われている。であるから、「人権」というあいまいな定義での言論の取り締まりを危惧する。

これらの、後者3つ(歯止めの不在、救済(対抗)措置がない、法的安定性を欠く)がセットなっているのが大問題である。

人権委員会による公表(情報がどの程度のものか判然としない。二次的差別を防ぐなどと理由をつけて、実際の言動が公開されない可能性すらある)の時点で、社会的制裁をうける可能性が高い。過去、ロッキードの「灰色議員」のように、起訴もされていないのに、以後、ずっと世間の批判にさらされた例があり、日本においては、社会的制裁は「推定有罪」により行われているといえるからだ。
特に実力行使を行うような集団に対する差別であったり、情報を総会屋が入手したりすれば、「なぜ人権侵害者を雇用しているのか」などと所属会社(組織)を追及することは十分に考えられる。となれば、公表された時点で、「くさいものには蓋」とばかりに、内容をよく吟味されないまま所属会社からの解雇などの社会的制裁を受けていくことになるだろう。
従って、恣意的運用により、実質的に随意に社会的制裁を人権委員会がコントロールできることになる。一般の人間は社会的制裁を受ければ致命傷であるから、実質的な言論封殺が可能となる。
人権委員会自身は勧告・公表しかできないとしても、それに伴う社会的制裁まで考えなくては手落ちである(そもそも、法案において、公表は懲罰的公表として位置づけられている)。
そして、恣意的運用を監視・批判しようにも、人権委員に対する批判自体が封殺されてしまえば、不可能となる。

私は、反対派の中で唱えられている解同の悪用の意図については問わない。
それは政治的文脈の問題であり、私は法案の法学的・社会的文脈で不安視しているからだ。
ただ、人権擁護を標榜しているような組織が悪用の意図をもっていたと“仮定”した場合、現行法案では、その悪用を容易に許してしまうのではないかということを恐れている。
「性善説」にたちすぎた法案で、言論の自由という民主主義の根幹に対する規制となる法案なのだから、もっと慎重に、「性悪説」よりにたつべきではないだろうか。

Mar 22, 2005

人権擁護法案の根っこ

人権擁護法案について、賛成・反対の議論がWeb上で積み重ねられている。
その論点の一つに、法案で「人権」というのが包括的に定義されている事がある。

確かに、包括的な定義は、法の抜け道を防ぐには有効だ。
だが、言論の自由という民主主義の根幹を成すものに対して、拡大解釈・恣意的運用が可能である包括定義でいいのかという問題がある。
そこで、賛成派と反対派の最大の違いは「人権」という言葉に対する信頼度のような気がする。

反対派は、基本的に人権という言葉を信頼していない。
つまり、人権という言葉が、似非人権団体や左派弁護士によって悪用されてきた歴史を知っているからだ。
それを列挙すれば暇がないが、櫻井よしこ女史の講演会中止事件、小人プロレス事件(*1)、似非人権団体による利権、出版における言葉狩り、手塚漫画などの黒人描写を差別として非難、カルピスマークの廃止、ちびくろサンボ絶版……。
あるいは、産経新聞には、こんな記事(これも人権侵害? 全国弁護士会、次々「勧告」(産経新聞3月19日=Sankei Web)もあった。

「人権」という言葉は、利権として悪用され、政治的主張実現のために悪用されてきた。
だから、反対派は「人権」という言葉での包括定義に反対しているのである。同じように悪用されるのではないかという疑念を拭いきれないからだ。
逆に、賛成派はそうした歴史を知っているのかどうかは別として、「人権」という言葉を信頼しており、「人権侵害」といえば、それは自明なもので、規制されてしかるべきだと思っている。
この溝は深い。

反対派の私からすると、賛成派の「人権」への信頼は楽観にすぎるように思うのだが。

*1……比較的知名度が低いと思うので解説。全日本女子プロレスには長く小人プロレス(ミゼットプロレスと「人権派」の横槍のために改称)を前座試合として行っていたが、身体障害者である小人を見世物にするのは人権侵害だという横槍が入った。そのため、後楽園ホールなどでは長く小人プロレスの試合を行うことはできなかった。 これについて、当の小人プロレスラーは、「自分達はプロレスラーであり、プロレスをしているところをより多くの人に見てもらいたい。これは逆差別だ」という主旨のことを発言していた。