Sep 16, 2005
「自民党をぶっ壊した」のは誰か
まだ完全とはいえないが、派閥連合党といわれていた自民党において、派閥の影響力が低下し、総裁主導の党に変貌を遂げようとしている。
今後、自民党の総裁が同じ方針をとるのであれば、金とポストの分配機構としての派閥は壊滅するだろう(それでも政策集団としては残るだろうが)。
語られ尽くしていることではあるが、自民党における派閥というものは、もともとは総裁候補と、それを総裁に押し上げようとする支援者たちの集団としてはじまった。自由党時代の鳩山一郎派がその代表格といえよう。
その後、保守合同までいくつかの政党を合併していく過程で、旧所属党の思想を引き継ぐなどして政策集団としての性格が強い派閥も出てくる。旧国民協同党系となる三木派などはそれにあたる。
その後、55年体制下の自民党安定政権となり、自民党総裁=内閣総理大臣となることから、党内抗争のための派閥という性格が強くなっていった。
派閥の力の源泉は金とポストである。
選挙にも普段の政治活動にも、とにかく政治には金がかかる。いわゆる給料だけではまったく不足なのだが、力もない若手議員には、献金もほとんどない。そこで、集金能力のある大物政治家が、資金援助を行う。見返りは、来たるべく総裁選びでの派閥領袖への支援だ。
当選回数を重ねて入閣などポストを狙う議員となれば、今度は、派閥に資金を献上することになる。こうした“派閥への貢献”に応じて、派閥領袖が党内政治力で獲得してきたポストが、割り当てられていく。
田中角栄派が党内最大派閥として君臨できたのは、地域利益誘導型政治を完成させることで得た強力な献金網を武器に多くの議員に金を潤沢に分配できたことによる。そうなれば、当選回数を重ね、力をつけてきた議員達が派閥に貢献することで、また派閥の力が増す。この“好循環”によったものだ。
三角大福中の怨念と抗争にまみれたとまで言われた派閥政治を終わらせるために必要な第一歩は小選挙区制の導入であった。
中選挙区では、一つの選挙区に複数の候補が当選できる(例えば、福田赳夫と中曽根康弘、小渕恵三は同じ群馬3区を選挙区としていた)。そのため、共倒れさえしなければ、一つの選挙区に自民党候補を複数人たてられた。派閥同士の利害が衝突しにくくなるため、派閥間の談合で候補者が決まっていったのである。
ところが、小選挙区となると、一つの選挙区で一人の候補しか当選しない。
こうなると、利害関係が直接、衝突してしまうから、派閥間では調整ができなくなり、党が候補者の絞込みを主導することとなる。
これは、候補者に対する党の影響力を強くするとともに、従来、派閥が自派閥要員の獲得のために行ってきた新人議員の発掘が党主導に移行し、派閥のしがらみのない候補者が増えることを意味する。
この小選挙区制の導入については小沢一郎に大きな功績があった。彼は他にも国会の政府委員制度(大臣のかわりに官僚が答弁する制度)の廃止や副大臣制の導入など、政府権限の強化に取り組んでいた。それが今回の民主党敗北の原因になっているのだから、皮肉なものだが……
小選挙区制が導入されても、派閥がすぐに力を失わなかったのは、まだ金とポストが残っていたからだ。
そのうち、金に大きなダメージをうけたのは、“不景気”である。
不景気による財政悪化で「構造改革」とされた一連の民営化や公共投資の抑制が余儀なくされ、誘導すべき利益が著しく減少してしまったからだ。
そして、最後の牙城、ポストについても、それまでの派閥の弱体化を背景に“一本釣り”で組閣することに成功。
これでにより、従来の意味での派閥の瓦解は決定したのである。
つまり「派閥連合党」としての自民党を“ぶっ壊した”のは、時系列順にいうと、小沢一郎、不景気、小泉純一郎ということだ。
ただ、小沢と小泉の境遇がまるで正反対になってしまったわけだが……
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